酔っぱらいながらこれを書いています。
今日は50代の定型の方に悩みを聞いてもらっていた。
人の話を聞くとはどういうことだろう?
その方がことあるごとに仰るのが、「まずは相手の話を聞くことだ」というものだ。僕の中でも少しずつ理解が進んで、いざ人の話を聞こう!と思いやってみると、全く聞けている気がしない。相手は聞いてくれると言ってもらえることもあるが、そもそも人が人の話を「聞く」とは何なのか?がよく分からなくなってしまった。
むしろようやく自分が「分からないことが分かる」ようになった。
今日率直にお尋ねした所、「聞けている」かは話し手が実感することですよ。
ということだった。
- 相手が話すペースを掴めるか?
- 話したいことを話せていくか(人は一人では自分が話したい事を話せない)
- 話す行為を通して自分を理解する助けになるか
カウンセリングで言う患者の2つのニーズ、
- 共感
- 問題解決方法
当事者会に来る方も大概いずれかを求めて来られる。
賢明な方はどちらも簡単に得られるものではないことにお気づきになっているし、
少しでも発見や共感が有れば「良かった」と言って次回も続けてきてくださる方もおられる。
自分自身、全く自分の現状のできることに満足できていないし、
当事者会に参加いただく方にお応えできているとも思えないが
ニーズに応えていこうという姿勢だけは持ち続けていきたいと
改めて思った。
自分の判断押し付け
最近気になっている「よい」も「わるい」も「自分の価値観、判断を人に押し付けているおこがましい行為」
という点で同じじゃないのか?
発達障害当事者同士、互いの想像以上に違いを抱えている中で
よいとかわるいとかを言えるほどそもそも相手を分かれるのか。
自分の基準が通用するのか?
に迷いを持っている
という話を聞いてもらっていた。
お相手の方が言うには、「仰るとおり、互いにそこまでは踏み込めない」と前置きした上で
「僕にも分かります」とか「共感できます」という形で留めておいて、『気持ちを聞いてあげる』のが大切なのではないか?
とお話いただいた。
当事者は「人との距離感を調整するのが苦手」という話も聞くが、「そもそも人と人がどこまで踏み込んで良いのか」は、障害有無を問わず、人として共通の関心事で、誰しも一度は深く自分に問うてみた方が豊かになれると感じている。
人との触れ合いのうまい方は、むやみに人を傷つけないし、人を尊重されるので人からも自然と尊重される。
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